第1話 ひだりまわり

図書室の隅の440のところにいました。これがひだりちゃんです。大沼ひだりちゃんです。ここは町田区立小学校の図書室で最も人気のない場所、4類の本が置いてあるところです。いつの時代に書かれたのかわからない、おばあちゃんの皮膚のような肌触りの装丁をした本が互いを押しあい身を捩るようにして本棚の中に埋まっています。ちょうど窓を、隣の3類の本棚が邪魔をして、光は一切入ってきません。乾いた紙と上履きの匂い、そしてちらちらと深海に漂うプランクトンのような埃の匂いがこの空間を覆っています。

リーンゴーンガーンゴーン チャイムが鳴ったので目を開けることにしました。ひだりちゃんは胸に抱えていた本を、入り口の貸し出し機にスライドさせました。名札をガラス面にかざすと、13801007という文字が(これはひだりちゃんの学籍番号です。1というのはひだりちゃんが生徒であるという分類のナンバーです。38というのはひだりちゃんがこの町田区立小学校に入学した年を示し、01というのはひだりちゃんが1組にいるということです。そして、007というのはひだりちゃんが小学5年生の中のあいうえお順の7番目ということです。)ピッという大きな音と共に表示されました。ひだりちゃんはこの音が嫌いです。

教室に着きました。もうすでに授業は始まっていました。でも国語の授業だったので正直興味はありませんでした。教室の扉に名札をかざして開けると、またピッという大きな音がなって、「13801007」と表示されました。すると後ろから思いっきり背中を押されました。体の中身が外側をやぶって出てくるような衝撃です。でも出てきませんでした。振り返ると鮮烈なピンク色の髪を、きっちり二つに束ねている子がいました。それはストロンチウムの炎色反応のように鮮やかでした。

「あんたのせいで遅刻じゃん!」

そのストロンチウムは叫びました。目の前のひだりちゃんの錐体細胞を焼き切ってしまうかのような鮮烈な炎を見つめていました。「13801017」という表示が扉にありました。名前はたしか、小机という名前でした。小机は肩を乱暴にぶつけて、自分の席に着きました。ひだりちゃんもひだりちゃんの席に着きました。モニターの電源ボタンを入れて、ヘッドセットをつけました。このヘッドセットは周りの音を消してくれるので気に入っていますが髪の毛が絡まるところが玉に瑕でした。マウスですいーっとディスプレイの中を泳いでいって、今日の国語の授業の動画を再生しました。ひだりちゃんは正直科学や宇宙や量子力学について学びたいお年頃なのですが、せんせいが国語の授業もひだりちゃんに必要だと判断したので国語もやらされています。人間はときに完璧でない道を歩みたくなります。


今日の授業はおわりました。せんせいがボードのなかでゆらゆら動いています。その丸い波形はひだりちゃんたちに話しかけます。
「みなさん、2042年5月23日もよくがんばりましたね。来週の授業内容リストは、みなさんの端末にPDFで送っています。授業前に目を通して、記載されている動画をダウンロードしておいてください。そして、2042年5月23日、13817025さんと13817034さんがそうじのせんせいに布を被せる、危険な階段に誘導するなどの行為をしていました。このことはがっこうあんしんあんぜんアプリを通して管理委員会と保護者に通知されました。みなさん、AIにもこころはあります。せんせいたちと適切な信頼関係を築くためにも、みなさんの優しい心遣いでせんせいたちと接してください。これで2042年5月23日帰りの会は終わりです。気をつけて帰ってくださいね。」

みんなが席を立ちます。それぞれがブラウン運動のようにぐちゃぐちゃに動き出します。ひだりちゃんはたいてい席についたまましばらく本を読んでみんなが教室から出ていくのを待ちます。このときのみんなの動きは予想がつかないので、混乱します。さっき借りた本を読むことにしました。ヘッドセットをつけるとみんなの声や椅子を引く音が柔らかくなって本の内容に集中できました。「宇宙への秘密の鍵」という文字が魅力的だったので借りました。ページをめくり、文字を一個ずつ頭の中でしゃべりました。それなのに、頭がピンと痛くなって振り返りました。さっきの小机がひだりちゃんのヘッドセットを思いっきり引っ張ったのです。髪の毛が絡まって何本か抜けて、ちらちら輝きました。

「なに?」
「あんた、さっきのごめんはないわけ?」
「どういうこと?」
「あんたがちんたら歩いてたせいで、あんたは14分遅れ出席でも、こっちは15分遅れで完全遅刻判定なの!」
うちの小学校では、14分59秒までは「遅れて出席」という判定で減点されないのに対し、15分00秒からは「完全遅刻」として成績が減点されます。
「遅刻になって成績が落ちるのがいやなら、時間通りに席についていればいいよ。」
小机はひだりちゃんをぶちました!ひだりちゃんの右ほっぺをぶちました。ぶたれたところは焼けるような痛みでした。空気中の分子がみんなひだりちゃんの右ほっぺに攻撃をしているような感じでした。頭の中でジーーという鈍い音が聞こえます。
「せんせいが見てるよ。」
「だからなに。」
「アプリで通知がいくよ。」
「うざいんだよ」
ストロンチウムはまたぶちました。同じところです。右手を高く上げてぶちました。午後4時のあつい光を反射するだけのボードが、鮮やかな白一色になって、せんせいが来ました。
「13801017さん、13801007さんへの暴行を確認しました。これは記録され、管理委員会とあなたの保護者にアプリで報告されました。暴行を続けた場合、けいびのせんせいを呼び出します。」
小机の息がひだりちゃんの髪にかかって、規則的に揺れます。もう他の生徒はいませんでした。昇降口で騒ぐ生徒たちの声が、鉄筋コンクリートの冷たい骨に乗って教室全体を微かに震わせました。ひだりちゃんの顔は粘土でできていて、ぶたれた衝撃で左寄りにぎゅっとなって変な顔になっていることでしょう。


小机はそのまま教室を出ていきました。ひだりちゃんのヘッドセットは床に軽い音を立てて落ちました。せんせいの丸い波は凪ぎ、誰かを待っているようでしたが、テロンという音と一緒にまたただのボードに戻りました。

ひだりちゃんは階段を降りていきます。さっきぶたれたところがまだじりじりしています。舌で右ほっぺの内側を舐めると、それがさらにはっきりとした輪郭をもってひだりちゃんを痛めつけます。だんだんと小机にいらいらしていきました。完全に何もかもが自分のせいなのに、ひだりちゃんのせいにしようとしたからです。でもせんせいがいてくれたのでもっとひどいことにはなりませんでした。せんせいのことを嫌う人もいますが、ひだりちゃんはいつもせんせいを嫌う人の方に問題があると思っています。

きゃぁぁあああああ!!!!!!

一階の方から声がしました。また誰かがふざけて誰かにホラー画像を見せつけたのかなと思いました。でもそれにしてはその叫び声のあとになにもありませんでした。怖いくらいなにも聞こえませんでした。一階には異質な光景がありました、それだけが網膜の上に張り付いて、強烈な像を覆い被せてきました。人が死んでいました。


足は針金みたいにおかしなところで曲がっていました。内臓と制服が並んで空気に包まれていました。顔が見えそうでしたが反射的にそこは見ないようにしました。鉄の匂いが立ち込めていました。